日本画家
上村淳之、上村松篁、上村松園、奥田元宋、奥村土牛の作品、略歴を紹介しております。画廊、ギャラリーリッチ(大阪)では、各作家の絵画を販売しておりますので、お気軽にお問い合わせください。また、現在作品が紹介されていない作家もお問い合わせいただければ、お取り寄せ可能か判断し、ご連絡いたします。
上村淳之(1933〜)
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■作品紹介
上段:上村淳之『鴫(銀)』
1999/リトグラフ/53.0cm×41.0cm
下段右:上村淳之『鴫』
1999/リトグラフ/45.5cm×60.5cm
下段左:上村淳之『双鶴』
2000/シルクスクリーン/
40.8cm×70.0cm
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作家略歴紹介
| 1933年 |
京都市に生まれる。
父に上村松篁、祖母に上村松園を持つ。 |
| 1953年 |
京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)に入学。 |
| 1956年 |
新制作協会展に出品、初入選する。 |
| 1959年 |
京都市立美術大学専攻科を終了。 |
| 1968年 |
新制作協会展に出品、新作家賞を受賞、会友となる。 |
| 1978年 |
創画展に出品、創画会賞を受賞。 |
| 1981年 |
創画会会員となる。 |
| 1984年 |
京都市立芸術大学教授となる。 |
| 1994年 |
松伯美術館が開館。館長となる。 |
| 1995年 |
日本芸術院賞を受賞。 |
| 1999年 |
京都市立芸術大学教授を退任。
同大学副学長となる。 |

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上村松篁(1902〜2001)
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■作品紹介
上村松篁『月』
2000/シルクスクリーン
60.7cm×44.3cm
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作家略歴紹介
| 1902年 |
京都市中京区に生まれる |
| 1921年 |
京都市立絵画専門学校に入学し、西山翠嶂に師事、画塾青甲社に入塾する。
第3回帝展に出品、初入選する |
| 1924年 |
京都市立絵画専門学校を卒業。 |
| 1930年 |
京都市立絵画専門学校研究科を終了。 |
| 1948年 |
山本丘人、橋本明治、秋野不矩らと創造美術を結成する。(のちに新制作協会日本画部となる) |
| 1953年 |
京都市立美術大学教授となる。 |
| 1959年 |
芸術選奨文部大臣賞を受賞する。 |
| 1967年 |
日本芸術院賞を受賞する。 |
| 1968年 |
京都市立美術大学名誉教授をなる。 |
| 1974年 |
山本丘人らと新たに創画会を結成する。 |
| 1981年 |
日本芸術会員となる。 |
| 1983年 |
文化功労者として顕彰される。 |
| 1984年 |
文化勲章を受章する。 |
| 2001年 |
心不全のため逝去。享年98歳。 |
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上村松園(1875〜1949)

■作品紹介
上:上村松園『鼓の音』
2000年/シルクスクリーン
48.8cm×60.4cm
下:上村松園『御ひな之図』
2000年/シルクスクリーン
45.5cm×38.0cm
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作家略歴紹介
| 1875年 |
京都に生まれる(本名:津禰) |
| 1887年 |
京都府画学校入学。
鈴木松年の指導をうける |
| 1888年 |
鈴木松年の退職にともない同校を退学し、正式に松年に師事 |
| 1890年 |
第三回内国勧業博覧会に「四季美人図」出品。
同作品は来日中の英国コンノート殿下の買い上げとなる。 |
| 1893年 |
農商務省より米国シカゴ万国博覧会に「四季美人」出品。隣火よりの類焼で高倉通蛸薬師に移転、幸野楳嶺に師事。 |
| 1895年 |
幸野楳嶺死去。
竹内栖鳳に師事 |
| 1900年 |
第九回日本絵画協会・日本美術院連合展で「花ざかり」が銀牌受賞。パリ万国博覧会に「母子」を出品。 |
| 1902年 |
嗣了信太郎(松篁)生まれる。 |
| 1911年 |
ローマ万国博覧会に「上苑賞秋」「人形づかい」(旧作)出品。 |
| 1930年 |
徳川喜久子姫・高松宮家御興入御依頼画「春秋」制作。 |
| 1940年 |
ニューヨーク万国博覧会に「鼓の音」出品。 |
| 1941年 |
帝国芸術院会員となる。
第四回文展に「晴日」出品 |
| 1946年 |
日展審査員となる。 |
| 1948年 |
女性初となる文化勲章を授賞。 |
| 1949年 |
8月27日、平城の〈唳禽荘〉にて逝去。
享年74歳。 |
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奥田元宋(1912〜2003)
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作家略歴紹介
| 1912年 |
広島県双三郡八幡村に生まれる。本名、厳三。
日彰館中学時代までは油絵を描いていた。 |
| 1931年 |
中学卒業を機に遠戚に当たる日本画家、児玉希望を頼って上京、内弟子となる。 |
| 1933年 |
一時シナリオライターを志し児玉家をでる。 |
| 1935年 |
再び絵筆を執り、外弟子として「希望」のもとに通う。 |
| 1936年 |
文展鑑査展に「三人の女性」が初入選。 |
| 1938年 |
第2回文展で「盲女と花」が特選受賞。 |
| 1944年 |
郷里の広島に疎開。
文学的な主題の人物画から風景画に転じる。 |
| 1949年 |
第5回日展で「待月」が特選・白寿賞を受賞。 |
| 1950年 |
希望門、深水門、橋村門合流による<日月社>結成に参加。(59年日月社常任委員長) |
| 1962年 |
第5回新日展では「磐梯」が文部大臣賞受賞。
文化庁買上げ。 |
| 1963年 |
「磐梯」日本芸術院賞受賞。 |
| 1973年 |
日本芸術院会員に就任。 |
| 1977年 |
この年より79年まで日展理事長をつとめる。 |
| 1981年 |
文化功労者となる。 |
| 1984年 |
文化勲章受賞。
風景画初期の明快な色調から、次第に重厚味が加わると共に、心象が色濃く投影されるようになる。 |
| 1989年 |
広島県名誉県民として顕彰される。 |
| 1990年 |
「風景画三代の系譜−玉堂・希望・元宋展」を開催。 |
| 1995年 |
日本芸術院第1部(美術)の部長となる。 |
| 1996年 |
京都・銀閣寺(慈照寺)の庫裏・大玄関及び弄清亭障壁画を完成させる。 |
| 2000年 |
「米寿記念−奥田元宋・小由女二人展」を開催。 |
| 2001年 |
「白嶺秋耀」を制作。
「奥田元宋集 わが胸中山水」を出版。 |
| 2003年 |
2月15日逝去。享年90歳。 |
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奥村土牛(1889〜1990)
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作家略歴紹介
| 1889年 |
東京・京橋に生まれる(本名:義三) |
| 1905年 |
梶田半古の門に入り、塾頭の小林古径に指導を受ける |
| 1911年 |
この年から約5年間、逓信省貯金局統計課に勤務しポスターなどを描く仕事に従事 |
| 1914年 |
半古没後、改めて古径に師事 |
| 1917年 |
この年より<土牛>の雅号を使用 |
| 1920年 |
古径の画室に共に住み、以後長い研鑚時代に入る。元院体画はもとよりイタリア・ルネサンスからセザンヌまで西洋絵画に関する勉強を重ね、土牛芸術の堅固でスケールの大きい基礎を作る |
| 1927年 |
古径の紹介で速水御舟の研究会で教えを受ける。
第14回院展に「胡瓜畑」(東京国立近代美術館倉)が初入選38才の遅い出発であったが、以後毎年入選を続ける |
| 1932年 |
日本美術院同人に推挙。
永年の蓄積と、物事に対する執拗さと誠実さ、東京人の感覚で画才は磨かれ、やがて近代的写実を踏まえた高潔な象徴世界を生み出していった。 |
| 1935年 |
帝国美術学校教授に就任 |
| 1936年 |
改組第1回帝展に出品「鴨」が満場一致で推奨第1位で政府買上げとなる。 |
| 1944年 |
塔鏡美術学校講師を務める |
| 1947年 |
帝国芸術院(現日本芸術院)会員に就任 |
| 1950年 |
武蔵野美術大学教授となる(〜1966) |
| 1958年 |
日本美術院監事・評議員に就任 |
| 1959年 |
日本美術院理事となり、第44回院展に戦後の日本画の最高傑作といわれる「鳴門」(山種美術館蔵)を発表 |
| 1962年 |
文化勲章を受章。併せて文化功労者となる。 |
| 1978年 |
日本美術院理事長に就任(〜1990) |
| 1980年 |
東京都名誉都民の称号を贈られる。 |
| 1990年 |
長野県南佐久郡八ケ穂村に奥村土牛記念美術館が開館。
東京にて逝去。享年101歳
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